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天正遣欧少年使節の航海とその後の物語

天正遣欧少年使節の像

長崎空港と大村市を結ぶ箕島大橋の入り口に、4人の像があります。

天正遣欧少年使節って何なの?めっちゃ読みにくい!と気になって、どんなことした人達なのかサラッと調べて、その後が気になったので更に調べてみました。

帰国後は4人それぞれの人生を歩むことになります。

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運営者:Dai
長崎県大村市在住のおじさん。会社員やりつつWEBマーケティングのコンサルタント、ディレクション、WEBサイト運営やってます。大村のことをゆる〜く発信してます。
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目次

天正遣欧少年使節について

天正遣欧少年使節の航路
参考:天正遣欧少年使節航路

天正遣欧少年使節は、キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてヨーロッパへ派遣された4人の少年たち(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)でした。

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当時の公式ヨーロッパ訪問団です。往復で軽く世界一周してます。

彼らは、日本でキリスト教への信仰を胸に旅立ちましたが、帰国後、日本国内でのキリスト教を取り巻く状況は大きく変わっていました。

使節団の航海 1582年2月に長崎を出発し、彼らはポルトガル、スペイン、イタリアを訪れました。

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1585年3月にローマに到着。片道約3年ですね。400年前の航海は、かなり過酷だったのでは!?

そして、多くの国々の王族や教皇グレゴリウス13世、シクストゥス5世と謁見し、彼らの存在は歴史的な出来事として記録されています。

天正遣欧少年使節のその後について

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帰国した時には、反キリシタンの流れができていたため、波瀾万丈

伊東マンショ|その後

伊東マンショは、天草のコレジオで学んだ後、マカオへ留学しました。

帰国後は小倉を拠点に布教活動を行っていましたが、1611年に領主の細川忠興によって追放され、長崎へと移りました。

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ここは諸説あり。1611年に下関に亡命して、その後、中津→長崎

翌年、長崎のコレジオで病を発し、亡くなりました。

中浦ジュリアン|その後

中浦ジュリアンは、マカオに留学した後、司祭として長崎で布教活動に励んでいました。

1614年に江戸幕府から発令されたキリシタン追放令により禁教の動きが強まる中、彼は地下に潜伏し20年以上も布教を続けました。

しかし捕縛され、1633年に殉教してます。

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激しい拷問の後、処刑されています。かなり壮絶な最後だったみたいです。

原マルティノ|その後

原マルティノはマカオ留学後に司祭となりましたが、キリシタン追放令の後にマカオへと移り住みました。(追放された。諸説あり)

ここでラテン語の才能を発揮して翻訳や出版に携わり、1629年にマカオで病没しました。

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日本文学、翻訳能力、交渉力が優れていて、天才だったみたいです。

千々石ミゲル|その後

一方、千々石ミゲルは、マカオに留学することもなく(選抜漏れで)、キリスト教を捨てました。

なぜ棄教したのか証明できるものは残っていませんが、ヨーロッパ探訪の際に奴隷制度を目の当たりにし、キリスト教に対して不信感を抱いていたという説があります。

彼はその後の人生において、日本の社会に適応し(仏教徒となり)、キリスト教とは距離を置くようになりました。

しかしながら、その後の情報は残されておらず、最後についても謎に包まれています。

天正遣欧少年使節の意義について

天正遣欧少年使節は、日本とヨーロッパの交流や文化の違いを学び、また当時のキリスト教の信仰状況や宗教的寛容を考えさせられる出来事でした。

現代においても、国際交流や文化の理解につながる貴重な歴史的事例として扱われています。

まとめ

天正遣欧少年使節は、遠いヨーロッパへと派遣された日本の少年たちの冒険物語であり、日本とヨーロッパ間の文化交流を象徴する出来事です。

彼らが帰国後に直面した困難な運命は、当時の日本社会におけるキリスト教の立場や宗教寛容の問題を考えさせるものであり、現代においてもその意義は色あせていません。

天正遣欧少年使節の物語は、私たちに国際交流の大切さや異文化への理解を教えてくれる、貴重な歴史的な教訓となっています。

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