長崎空港へ向かうとき、海のそばに立つ4人の像を見かけたことはありませんか。あの少年たちが、天正遣欧少年使節です。読み方は「てんしょうけんおうしょうねんしせつ」。名前は少し難しいですが、大村から世界へと目を向けるきっかけになる歴史です。
天正遣欧少年使節の4人は誰?
使節に選ばれたのは、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人です。「原マルティノ」と表記されることもあります。有馬のセミナリヨで学んだ少年たちで、大人になってから旅に出たわけではありません。
| 人物 | 現在のゆかりの自治体 | まず覚えておきたいこと |
| 伊東マンショ | 宮崎県西都市 | 使節の正使を務めた人物 |
| 千々石ミゲル | 雲仙市・大村市・諫早市 | 大村でも暮らし、帰国後の信仰をめぐって研究が続く人物 |
| 中浦ジュリアン | 西海市 | 帰国後も布教を続け、1633年に長崎で殉教した人物 |
| 原マルチノ | 波佐見町 | 語学に優れ、翻訳などにも関わった人物 |
4人全員が現在の大村市出身というわけではありません。大村との関係を知るには、出身地に加えて、派遣を支えた大名や少年たちが過ごした土地を見ることが大切です。大村市のゆかりの地紹介
なぜヨーロッパへ行ったの?
派遣に関わったのは、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信という3人のキリシタン大名です。その背景には、イエズス会の宣教師ヴァリニャーノの提案がありました。
目的の一つは、日本でのキリスト教布教の成果をヨーロッパへ伝え、ローマ教皇から支援を得ることでした。信仰と布教に関わる役割を担った旅だったのです。京都大学の解説
「日本の使節」と聞くと国の代表団を想像しがちですが、近代の日本政府が派遣した外交団ではありません。キリシタン大名の名代という立場と、イエズス会の企画・活動という背景を合わせて押さえると理解しやすくなります。
長崎を出て、ローマへ。帰国まで約8年半
| 年 | 主な出来事 |
| 1582年 | 長崎から出発 |
| 1585年 | ローマで教皇グレゴリウス13世に謁見 |
| 1587年 | 日本でバテレン追放令。大村純忠もこの年に死去 |
| 1590年 | 長崎に帰国 |
ローマ到着まで約3年。帰国までを含めると約8年半に及びます。海を渡るだけでなく、各地での滞在や移動も含む長い旅でした。4人は欧州各地で迎えられ、西洋の文化に触れています。九州国立博物館の航路資料
帰国した4人は、その後どうなった?
帰国後の4人は、同じ人生を歩んだわけではありません。伊東マンショは司祭となり、1612年に長崎で亡くなりました。原マルチノも司祭となり、禁教下でマカオへ渡って活動しました。中浦ジュリアンは国内で布教を続け、1633年に長崎で殉教しています。長崎市の人物解説・西海市の文化財解説
諫早市では2024年12月、「千々石清左衛門の墓」が市指定史跡になりました。市の解説では、被葬者はミゲル夫妻である可能性が高いとされています。墓の研究と本人の信仰の解釈は区別して読む必要があります。諫早市の文化財解説
大村でこの歴史に触れるなら
身近な入口になるのが、空港へ向かう道沿いの天正遣欧少年使節顕彰之像です。派遣を支えた純忠について知りたくなったら、大村純忠史跡公園の案内も参考になります。
大村の海辺で見かける4人の姿を、遠い国へ旅立った少年たちの人生と結びつけてみる。いつもの景色にも、少し違う奥行きが感じられそうです。
編集注:2023年公開の記事を改稿。ミゲルの信仰に関する断定を見直し、墓所の文化財指定を追記しました。

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