長崎からローマへ。天正遣欧少年使節の航路と約8年半の旅

帆船と羅針盤を描いたAI生成イラスト。実際の船や航路を復元した画像ではありません

大村で見かける天正遣欧少年使節の像。その4人は、どんな道を通ってヨーロッパへ向かったのでしょうか。

長崎から西へ進み、インド洋を渡り、アフリカの南を回って欧州へ。ローマに着くまで約3年、帰国まで約8年半の旅でした。まずは大きな流れを追ってみましょう。

アイキャッチは航海をテーマにしたAI生成イラストです。実際に乗った船や寄港地を復元したものではありません。

大きく見ると、アフリカの南を回る道

九州国立博物館の航路図では、天正遣欧使節の経路が長崎からマカオ、インド方面、喜望峰を経てヨーロッパへつながっています。

長崎 → マカオ → インド方面 → アフリカ南端・喜望峰 → ポルトガル → スペイン → イタリア・ローマ

これは往路の大きな流れを示す模式的な案内です。すべての寄港地や都市間の移動を列挙したものではなく、矢印の間隔も距離・日数を表していません。九州国立博物館「天正・慶長遣欧使節航路」

ヨーロッパに入ってからも、到着した港がそのまま目的地ではありません。都市を訪ね、人々と会いながら、ローマへと旅が続いていきました。

出発から帰国までを年表で見る

時期場所・出来事旅の中での位置づけ
1582年2月長崎を出発長い旅の始まり
1584年10月マドリード到着スペインでの訪問
1585年3月ローマ到着出発から約3年
1590年7月長崎へ帰着出発から約8年半

年月は九州国立博物館の資料に合わせています。日本の当時の暦では月が異なるため、和暦の年月と西暦の年月を混ぜて読むとずれが生じます。この記事の月は資料の西暦表記に沿っています。航路・年月の出典

ローマでは何をしたの?

少年たちは、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しました。旅の目的には、日本でのキリスト教布教の実績を伝え、支援を得ることがありました。ヨーロッパ各地で歓迎され、彼らについての出版物も作られています。

旅先では西洋音楽や印刷技術などにも触れました。帰国後に広がったキリシタン版を考えるうえでも、この旅は重要な入口になります。京都大学の解説

約8年半は、ずっと船に乗っていた時間ではない

出発から帰国までの長さを聞くと、海上だけで何年も過ごしたように感じるかもしれません。しかし、その年月には航海だけでなく、各地での滞在や訪問、陸上の移動も含まれます。

「片道3年、帰りも同じ日数」と単純に割り振れる旅でもありません。現代の航空便の所要時間と比べるより、少年たちが成長するほどの時間をかけて世界に触れた、と考えると実感が湧きます。

支倉常長の使節とは、別の旅

「ヨーロッパへ行った使節」として、支倉常長の名前を思い浮かべる方もいるでしょう。こちらは慶長遣欧使節で、天正遣欧少年使節とは出発の時期も経路も異なります。

比較天正遣欧使節慶長遣欧使節
出発1582年、長崎1613年、月ノ浦
人物の目印伊東マンショら4少年支倉常長
航路の大きな違いインド洋・喜望峰方面から欧州へ太平洋を渡り、メキシコ方面を経て欧州へ

九州国立博物館の資料は、この二つの航路を併記しています。図を見るときは、凡例でどちらの使節の線なのかを確かめると混同を防げます。比較の出典

帰ってきた日本では、状況が変わっていた

少年たちが海外にいる1587年、日本ではバテレン追放令が出されました。派遣に関わった大村純忠も、帰国を待たずに亡くなっています。1590年の帰国は、出発前の暮らしにそのまま戻ることではありませんでした。

その後の4人は、それぞれ異なる道を歩みます。続きは天正遣欧少年使節の旅とその後で紹介しています。

大村の海を見ながら、その先にインド洋やアフリカ、ヨーロッパまで続く旅を思い浮かべる。地図で道筋を知ると、4人の像も少し身近に感じられそうです。

歴史特集を続けて読む

天正遣欧少年使節とは?4人の旅とその後

長崎空港へ向かう道の4人の像

大村純忠が少年たちを送り出した背景

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